Dailylife_脳内整理的空間

ただただひたすらに、脳を整理するためのもの。

スポンサーサイト

Posted by Nao.H on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「ニーチェの馬」

Posted by Nao.H on   0 comments   0 trackback

2012年12月31日 大晦日の日。
どうしても2012年中に観ておきたかった映画を視聴した。
「ニーチェの馬」
19世紀、哲学者ニーチェは広場で、鞭打たれても足を上げずにその場に立ち尽くした馬を見て駆け寄り、涙を流して卒倒した。その後二度とニーチェが正気を取り戻すことはなかった。
この映画はちょうどそのニーチェの時代、貧しい村に住む父娘と馬の物語である。
映画に出てくる馬がそのニーチェの馬とは述べられていない、しかしこの映画に出てくる馬にはすでに絶望の霊がついていた。



やむことを知らない激しい風が吹きすさぶなか、荒涼とした地を馬は鞭打たれながら家に向かう。
その家はそこに住む父と娘にとっては安らぎの場ではない。営みというにはあまりにも素気ない「動作」を繰り返すための「箱」である。
馬は小屋に入れられ、暗闇の中に入れられる。馬は光を望んではいない。

1日目
片腕が不自由な男は娘に服を着替えさせ、そしてうつろな目で娘を眺める。
そこに生の感情は映ってはいない。
二人はじゃがいもで生きることを繋げる。茹でる・皮をむく・食べる。
娘は一つのじゃがいもでさえいつも、残す。まるで生に未練がないかのように。
父親は外を眺める。外には、何もない。暴風と砂埃、一本だけ立つ木がある。

2日目
朝起きて娘は服を着替え、砂埃の吹く荒野を歩き、井戸に水を汲みに行く。
その生きるための動作が、映画を観ている側の気持ちを儚く悲しく、つらい気持ちにさせる。
人が生きることは当然のことではない。
鞭打たれて動く馬と、人間が重なる。

水を汲み終わり家に戻ってくると、父親の服を着替えさせる。
父親は仕事に向かおうと、馬小屋に向かう。しかし馬は鞭打たれながらも動くことを拒否する。
「動」が止まったのだ。その先には何が待っているのだろう。
しかし人間はまだ動を止めようとはしない。
家に帰った父親は薪を割る。
そこに来客がくる。焼酎を分けてほしいという。
町は吹き止まない風によって破滅にいたり、それを求めたのは人間であり、神はそれを促した。
高貴な人間は破滅をもたらす者に立ち向かうことはできなかった。知識の終焉がある。

と、男はニーチェの言葉のような詩を唄い帰っていく。
ここで破滅をもたらすものの正体は明らかにはされない。


3日目
水をくみ、着替え、食べ、飲む。
馬は餌を食べることを拒絶した。馬は死へと真っ直ぐに向かっていく。
浮浪者たちが彼らの井戸から水を飲む、彼らは自由の道へ向かう途中だそうだ。
二人は彼らを追い払う。一人の老人が水のお礼にと娘に本を置いていく。
「朝はやがて夜に変わり、夜にはやがて終わりが来る。」その時には何があるのか。
きっと二人は何も望んではいない。

4日目
井戸が干上がった。馬は食べることを拒絶し続け、水を飲むこともやめた。
父親は家を出て、新天地に向かうために荷物をまとめる。
荷物―毛布、服、裁縫箱、じゃがいも、工具、をまとめ小さな荷台に乗せる。
暴風があからさまな向かい風となる道を2人と1匹は歩く。歩かされる。
小さな丘の向こうに彼らは消えていく。

彼らは戻ってくる。破滅が待っていることが分かっている家に戻ってくる。
戻ってこざるを得ないのかどうか、理由はわからないが、彼らは戻ってきた。

5日目
馬は虚ろな目でただ、そこにいる。そこに霊は残されていないようだ。
居場所を失った男は窓のそばに座って「いる」。娘は裁縫をして、時間を過ごす。
まだ明るいはずの時間に光が失われる。ランプに火がつかなくなる。油が満たされているのにも火がつかない。
太陽すら、ランプのような無機物でさえ死に向かっている。
火種すらも消え、終焉が近づいていることを示している。

6日目
暗闇の中で、男と女が座り、じゃがいもを見つめている。
男は「食わねばならん」とつぶやき、生のじゃがいもの皮を不自由な体でむく。
女は皿のほうに目を落とし、微動だにしない。
男は一口じゃがいもを齧り、そして食べるのをやめた。
暗闇が彼らを包んでいく。

そして、終焉。


・「人間の尊厳を問う」という予告編にそぐい、「生」とは、という考えを求められる映画でした。
安らぎの場にもならない家に帰るのも、生きることをつなげるために最低限に必要な水を井戸に汲みに行く時も、あるのかないのかわからない仕事に向かうときも、いつも暴風と砂嵐とにまみれながら映画の人物たちはただひたすら生きていくのです。
ここに人間の本質を垣間見たような気がします。
すなわち、生きることを選択する生物は、どんな逆境の中においても営み行うということ。
馬にとっては人間からの強制的抑圧力、鞭であり、
人間にとっては自然の逆境
(ニーチェの哲学からしたら"神"からの強制的抑圧力ではないかとボクは思う)の中でも、
生を選ぶものは動き続けることができるのではないのかな。


しかし極限の環境の中で「生の動作」を繰り返す彼らも
ついに終焉に向かうにつれて自らの生を拒否していきます。

鞭打たれながらも、動きを止めなかった馬が、自ら動くこと・食べること・飲むことを順に拒否していく。
そのうち、暴風の中で生きる2人の人間が馬と同じように映ってきます。
自由を求めず、光を求めず、食を求めず。欲望がなくなっていくのです。

馬のうつろな目、また4日目に彼らが家を出ていき、そして戻ってくるシーンは
少なからず生に対する執着がある僕の理解を超越していた映像美として映りましたなぁ。
理解を超えた、(のにも関わらず)引き込まれる映像がありました。


・終焉に向かう
世界の終りがあるとすれば、沈黙というものの恐ろしさを感じました。
動の世界には希望があります。動いている限り、生きている実感もわいてきます。
しかし、この映画の映す世界の終焉には「止」によってもたらされます。
馬を鞭打っていた人間もその最期には鞭打たなくなり、
人間の力を奪っていた風も最後はやみます。
つまりそこには「止」があり、逆境というものがなくなるのです。

しかし馬はその絶望ゆえに動きを止め、生に対する執着心を捨てたゆえに食べること、飲むことをすて、
箍を外されても、出口が開いていたとしても、出て行こうとはしません。
人間たちも光がなくなったとはいえ、風のやんだ外の世界にでて必死に光や水を求めることもしません。死ぬ者(生を拒否したもの)には自由すら望ましいものには見えないかのよう。
人間は馬の生に対する拒否により、自由を失い、そして正を拒否した。

ニーチェの超人思想とか難しいことはよく知らないけれど、余韻はこのうえなく強烈なインパクトのある映画だった。
退屈極まりない映画なのに、また観たくなる。(笑)
それはこの映画を見て、矛盾・疑問が自分の中に沸き立つうちは、生に対しての執着と愛着が自分のうちにあるのだということを再確認でき、安心できるからなのかもしれない。

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://dailylife70.blog87.fc2.com/tb.php/4-329d3b20
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。